【シャンソン 訳詞集】 第22回    2019年10月号案内

シャンソンには多くの分類がなされています。
かつてはその分野だけを得意とする歌手がいて、各自の特色で勝負していた時代もあったようです。
解りやすい分類ではレオ フェレのミラボー橋の様な文学的シャンソンとかジョルジュ・ムスタキのHIROSHIMAの様な哲学的シャンソン、コミカルなシャンソンはレイバンチェラの万事順調公爵婦人。こうした中にエディット・ピアフから始まったと言われる現実派シャンソンもある。
よく知られたところではカトリーヌ・ソバージュやジャクリーヌ・ダノを上げることが出来る。
この中の現実派シャンソン(シャンソンレアリスム)歌唱法は「祈り・願い・叫び」を根底においた歌唱法であり、この歌唱法を提唱したのがスカーフの作詞・作曲家モーリス・ファノンです。

そんなことを想いながら歌に挑戦してみるのも良いことではないでしょうか。

私の訳したものを少しずつ紹介してゆきたいと思いいます。                            下に進むほど古い投稿の順に成ります。

私のこだわりの一つ。できるだけ原詩の美しい表現を生かしたい。                    そんなところでしょうか?全体をよく読んでいただけるなら、                      まさに我が人生に向かって話しかけているような詩の多いのに気付きます。

原題はSa  jeunesse 「その青春」

日本では「青春と言う宝」で知られている。                                              このあと続いて「He encore ・昨日まで」                                             日本では帰り来ぬ青春としてよく歌われている、                                          アズナヴール青春者2部作とでも呼べる曲。

自分にとって、青春とはどうだったのだろう……そんな思いを振り返らせる。                                       若さとは暴走であり、壮年になってそれらがまとまり初老を迎えてやっと見定めできた。                             私にとって青春とはまさに、ジョルジュ ムスタキの Il est trp tard (もう遅すぎる)                            ……「時は過ぎてゆく」ではないが、(もう遅い)と、気づいたのですが、                                未だ反省だけは猿軍団よろしく、手をついたまま……あなたにとって青春とは?

 

つかの間の青春
シャルル・アズナブール作詞・作曲
はるのゆうに   訳詞

だれもが その手に 未来と
希望が 満ちてる 若い日
恋は身をかがめた 眠ることも忘れ
はるかな 行く手に 望みを
ちりばめ 悩みに あふれた
青春という酒 飲み干そう
酔いしれるまで 青春は 再び
もう戻せない 去って行く
空しく手を差し伸べても
もう遅い いつのまに 過ぎ去った
人世を 残せない 若い日は
両手に抱き締めても 戻せない
いつまでも ほほ笑む間に
子供のときは去って行く
それも知らないで年老いて行くもの

間  奏

旅路の 向こうで 人生が
笑ってる 悩みと 苦しみに
時が過るまで 酔いしれよう
若い日々に 再び 帰れない
去ってしまう うつろに
腕の中をすりぬけ
立ち去る 青春は 風のように
いつまでも 止めれない 時の流れも
青春はつかの間に 輝くもの

 

 

 

 

Et pourtant                                                                  シャルル アズナブールの作品

説明する必要もないと思います。                                                       心の底に潜むものと、表面的なものの比喩。                                                     どちらが本当に気持ちと言えば、真実と事実……

観えるものと視えないものと言えば良いでしょうか。やはりアズナヴールらしい?                                    といえそうな表現の深みを感じます。それをどのように表現されるか、                                       それは歌う人の感じ方一つでしょうか

だけど(Et pourtant)
シャルル・アズナヴ-ル 作詞・作曲
はるのゆうに      訳詞

いつかは 違う朝迎え 私は 目を覚ますわ
愛の鎖を 解き放され だけど だけど
悔みも 惜しむ事もなく 未練も 望みも捨て
愛の誓いからも 逃れ 心からも 遠ざかるわ
だけど 今も 愛してるの
あなた だけを 愛してるの
だけど だけど 愛してるの だけど・・・・・

涙も 一つこぼさずに 叫びさえ 上げず
固い絆を 引き離して だけど だけど
あなたの むごい冷たさもを 忘れて 生きるために
愛に満ちた 幸せな日を 昼も夜も 夢見るでしょう
だけど 今も 愛してるの
あなた だけを 愛してるの
だけど だけど 愛してるの だけど・・・・・

私は 喜び求めて  あなたの 思い出から
いつか飛び去って行くでしょう だけど だけど
誰かの 腕に抱かれたら あなたの 名も忘れる
いつか 明日を望むときに 遠い過去を 思い出すわ
だけど 今も 愛してるの
あなた だけを 愛してるの
だけど だけど 愛してるの
Et pourtant pourtant
Je n`ai me quetoi
Et pourtant pourtant
Je n`ai me quetoi
Et pourtant pourtant
Je n`ai me quetoi
Et pourtant  Et pourtant

 

そして 今は
ピエール・ドラノエ作詞
ジルベール・ベコー作曲
はるのゆうに訳詞

今はもう どうすればいい
残された 人生を
あなたが去った 今となっては
この夜は 何のため
巡る朝は 何のため
この心は 誰のため
こんなにも 激しく
心は 揺れ動く

今はもう どうすればいい
人生は 闇に落ちる
この世で もう独りぼっち
あなたは もういない
わかって ほしいの
私は もうだめなの
パリさえ この街でさえ
もうやりきれ ないわ

今はもう どうすればいい
もう涙は 見せないわ
暗闇を 焼き払おう
夜明けには あなたを憎む
鏡に ある夜
旅路の 果てが見える
涙も 涸れ果てて
もう 何もない

今はもう 何一つない
この世に 別れを告げる
今はもう 何もない
総てが ない!

 

 

 

セシボン

作詞 アンドレ オルネズ
作曲 アンリ ベッティ                                                                                                                                           訳詞 はるの ゆうに

 

セ シ ボン どこであろうと
腕取り合って 歌い踊る
ウ~ン セ シ ボン 他愛もなく
囁くのが 楽しみなの

道行く人は 二人を
うらやましげに 見ている
セ シ ボン すてきな響き
あなたに夢中 あなたもそうね
お~セッシ ボン い抱きあうわ
こんなことは 初めてなの

あなたも私に 夢中ね
両手に私を抱き締め
ウ~ン セ シ ボン 素敵なのよ
二人の恋の わけは言えない
セ シ ボン 素敵だから
何もかもが 素敵なのよ

抱き締めてね
夢中なのよ
恋は セ シ ボン!

 

スカーフ

作詞・作曲  モーリス・ファノン                                                                                訳詞 はるの ゆうに

あなたの思い出に 襟に巻いた
思い出の絹 寒いんじゃないわ
温もりを 秘めているから
ただもう一度 思い出したくて
うなじにふれた あなたの指を
あなた… と 呼んだ あのころを

あなたの思い出に 襟に巻いた
絹のほほえみ もう一度だけ
夜のとばりが 二人のひざに
降りてくるのを 眺めているわ
愛し合う 人達に
どんなふうに 夜は来るの?

あなたの思い出に 襟に巻いた
絹のため息 二人だけの
世界を望み 力をこめた
首に残る あなたの指の跡
愛し合った あのころ……
その温もりも 今はむなしい

あなたの思い出に 襟に巻いた
あなたが残した 絹のスカーフ
寒いんじゃないわ
あのころの温もりを
秘めているから……

 

 

ジュリエット・グレコの歌でヒットしました。                                         コケティッシュな内容の可愛い女の子を愛らしく表現していて、                              可愛いなぁと思わずにいられない……歌詞の内容もフェレらしく、                      一捻りもふた捻りも加えられており、速いテンポで表現するには                             やはりボディーランゲージが重要かとおもいます。                                                          日本人の不得意とする分野ですが、ビデオなどよく鑑賞し、                                 取り入れてみるのも良い事ではと、お薦めいたします。

ジョリモーム
レオ・フェレ作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

セーターの下 お前は裸 ジョリモーム
幸せいつも 素通りするよ ジョリモーム
マスカラはげりゃ 恋も逃げるよ ジョリモーム
自慢の髪は 甘い香り ジョリモーム
年から年中 咲いては散る
薔薇のように捨てられるよ ジョリモーム
朝になれば ただの娼婦
ランプみたいに 消されるだけさ ジョリモーム

お前のキスは 心溶かす ジョリモーム
可愛い胸は 蜜の味よ ジョリモーム
薄いドレス それも魅力 ジョリモーム
おかげでいつも 豚箱入りさ ジョリモーム
お前はただの 愛の星さ
幸せからは 目隠しされた ジョリモーム
暇つぶしに 咲いてる花
そのときだけで 忘れられる ジョリモーム

ポーカーで勝つ ただのワンペア ジョリモーム
幸せのがし 泣きたくなるよ ジョリモーム
神様さえも はだしで逃げる ジョリモーム
お前の前を 幸せ素通り ジョリモーム
傷つけられて 心しわくちゃ
アイロンかけて 元に戻す ジョリモーム
小徑に散った 秋の葉っぱ
それが似合い 心安らぐ ジョリモーム
そこは気違いじみた通り
セーターの下 お前は裸・・・・・・ ジョリモーム

 

ジュリエット グレコの歌で知られている曲。                               ジャリーヴ・・・・・・言葉の感じから言えばエレベーターが締まりかける                         「ちょっとまって!今すぐ行きます!」とか、熱いカップを手に取りそうなとき、                                熱いから「ちょっとまって!」というような感じ。

原曲は菊から菊へ・・・・・と始まります。これは生まれたときのお祝いの花が菊で、                              死ぬ時の葬儀の花が菊・・・・・という意味合いです。                                   この生と死の狭間に生きている、死が家の門口に訪れている・・・・・ちょっとまって。              ちょっとでいいから・・・・・そんなイメージを感じながら歌ってほしい。                         「行かないで」と双璧をなす、ブレルの好きな曲です。

 

ジャリーヴ(行きます!)
作詞 J・Brel
作曲 J・Jouannest
訳詞 はるの ゆうに

今日から明日へ 始めと終わりが 別れる定めの 恋人たち
生まれる時さえ 失う時さえ ただ 一度の 生きる悦び
それが最後の 願いとしても 望むことさえ 許されない
生きる事にも 死に行く事にも 選ぶ事さえ もう出来ない
ジャリーヴ! 今すぐに! でも もう少し生きたかった
夏まで!いいえ出来るなら春まで! せめてお願い! 明日まで
ジャリーヴ! 今すぐに! でも もう一度だけ 見たかった
あの河を 港を! 愛する人を この目で確かめて 見たかった
ジャリーヴ! 今すぐに! でもどうして!
今 この私は 何処へ行けばいいと言うのか
行きます! もちろん 行きます!
でも 今まで 死に向かって歩いてきただけなのか!

今日から明日へ 始めと終わりが そして 孤独は深まってゆく
生きる事にも 死に行く事にも そして 何かが 残されて行く
ジャリーヴ! 今すぐに! でももう一度 恋を掴みたかった
燃えるような恋を… 幸せになりたかった
ジャリーヴ! 今すぐに! けれど もう一度この震える体
星に包まれ 恋に身を灼かれて 死にたかった
ジャリーヴ! 今すぐに! 死よ お前が早すぎたのか!
いや 私が遅れているというのか
判っています! もちろん行きます!
でも 行く以外 もう どうしようもないのか

ジャリーヴ! ジャリーヴ! ジャリーヴ!

 

ジャヴァ・ Java

リシエンヌ ドリールの歌で馴染みの曲。                                             三拍子のリズムだが、もともとミュゼットから派生したもので、                                         ワルツは頭打ちにアクセントがあるのに対し、ミュゼットは                            真ん中にアクセントが来る。                                                   理由は、英国の音楽楽器バグパイプ同様のフイゴ式革袋キャブレット(ミュゼット)                                                                       ミュゼット・ド・クールで演奏されたために、                              フイゴを膨らすため最初に空気を取り入れたあと音が出るため、                                  真ん中にアクセントが出来た。

キャブレットは、もともとはオーベルニュ人の持ち込んだものを、                                                 後、イタリア人がアコーディオンを持ち込んで、同じ曲を弾くようになって、                                                                                                    アコーディオンに取って代わられた経緯もある。

このためジャヴァは頭にアクセントが来る、少し早めのワルツだと思えば理解りやすい。

ジャヴァという言葉は、諸説あるものの、一般的には客に問いかけたサヴァ?が              シャヴァになり、ジャヴァになったと言われている。

この曲は、楽器を相手に話しかけ、問いかけている擬人化したもので、                                          ジョルジュ ムスタキのアコーディオンにも共通した意識がある。

エディー  マルネイ 作詞                                            エミール ステルン 作曲                                               はるのゆうに訳詞
リシェンヌ ドリール 歌

ジャヴァ あの人の 腕の中
アコーディオニスト
そんな芸術家 気取ってる
若い 人たちと
逆立ちしたり 立ち直ったり
お屋根の上の 子猫みたいに

ジャヴァ あの人の腕の中
アコーディオニスト
みんな お上りさんばっかりと
想わないでいてね

ホラっ!気をつけな 客を選ぶ
事も覚えて
チンピラに 口笛を ふかれても
びくついていちゃ だめだよ
あんたはそこで 何をしてるの
両手に抱かれ 眠りたいの

ジャヴァ あの人の 腕の中
アコーディオニスト
そんな芸術家 気取ってる
若い 人たちと
逆立ちしたり 立ち直ったり
お屋根の上の 子猫みたいに

 

説明はいらないほどよく歌われている歌

でも、少しだけ原曲の詞もかじってみると、また別な感情が湧いてきます。               女心ではあっても、受け取り方が変われば更に深い感情も歌えるという、                見本でもあるでしょう。特に歌ってみたいと思われる方は要注意・・・・・・                       語尾を伸ばさないこと。

メロディーだとこんなふうに歌っている方が多いでしょう?

ふたりのこぉいは おわったの ねぇ・・・・・・                          でも脳の中で聞こえてくるのは文字変換されてしまうので                           「二人の行為は 終わったの ねぇ」

理解っていただけたでしょうか?文節の区切りを間違えると、                                         このような結末になってしまうのです。                                        言葉は一つ一つのグループで構成されます。先程の歌だと                                     「二人の恋は」が一つのグループですから、                                       語尾を伸ばす場合「二人のこいは・・・終わったのね!」                                きちんと語尾を言葉の語感通りに切ること。

理解りやすく書きますと「二人のこいは◯ おわったのね◯                           余韻がほしい?と思われるでしょうか?そこを自分の感じる気持ちを                               顔に表せば、更に訴えかける事ができるのです。

中島みゆきのライヴなぞ、見る機会があれば、よく観察してみてください。                            彼女の歌うときの表情や表現は素敵です。                                                     心模様がダイレクトに伝わっってきます。眼の前に映像が見える感じです。

サン トワ マミ

サルバトーレ・アダモ作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

わかってるの 終った事と
でも お願い もう一度だけ
あやまちだと 許して欲しいの
あふれる愛 その名に賭けて
二人とも 忘れてたわ
愛してた 楽しい日々
サントワマミ
夢も無く 過て行く
あなただけ サントワマミ
離さずに 抱き締めて
夢の中 サントワマミ

知ってるでしょう 街を歩けば
甘い声で 誘いかけるわ
でも 私は あなたの胸に
心まかせ 揺れていたいの
サントワマミ
あなたなしじゃ 当てもなく
さ迷うだけ
サントワマミ
離さずに 抱き締めて
夢の中 サントワマミ

サントワマミ
あなたなしじゃ 当てもなく
さ迷うだけ
サントワマミ
離さずに 抱き締めて
夢の中 サントワマミ

 

 

 

「グラシアスアラヴィータ」                                                             メルセデス・ソーサの心打つ歌声は、胸が痛みます。                                Violeta Parra で検索されれば彼の壮絶な死をかけた訴えを知ることができます。

グラシアス ア ラ ヴィダ(人生よ ありがとう)
作詞・作曲ヴィオレータ パラ
訳詞 はるのゆうに

グラシアス ア ラ ヴィダ
おまえに抱かれ
ひとみ 開ければ
あの人も見える
吹く風の音や
あなたのささやき
変らない友に
伝える言葉
おまえがくれた
生命の輝き

グラシアス ア ラ ヴィダ
この碧い空
小鳥の歌声
小雨のつぶやき
心にきざむ
優しいあなた
歩き続けた
はるかな道の
彼方に見える
あなたの待つ家

グラシアス ア ラ ヴィダ
多くの喜び
おまえがくれた
涙と笑顔
私の歌は
そこで生まれた
私は歌う
あなたのために
ありがとう生命
私の人生よ                                                    グラシアス ア ラ ヴィダ

 

 

惜しくもアズナブールは94歳で亡くなられました。                          まさにシャンソン界にとっての至宝を失った思いです。                         もう2度と現れないであろうといっても過言ではないでしょう。

日本人の好む美しい曲をたくさん残してくれました。                          わたしたちはこの志を受け継ぎ、彼の思いに再び新しい命を与え続けねばなりません。                     歌い続けるということは、その思いや心を自分のフィルターを透して再構築することだと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

おお我が人生
シャルル・アズナウール作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

オ トワ ラヴィ
苦しみさえ 抱いて生きる 私の人生
何 ひとつ見えない 名もない花を
咲かせて行こう

オ トワ ラヴィ
手のひらから こぼれ落ちる 私の明日が
いつか 消えて行く日を 抱き締めたまま
生きて行こう

命の 有る限り
身をゆだねて いつもそばにいる
あなたの 腕の中で
燃え尽きたい 炎のように

ラヴィ 我が人生
強くだきしめ 温めてほしい
いつも 手をさしのべて
見捨てないで 孤独な私を
信じている おお我が人生
ラヴィ ラヴィ
ラヴィ・・・・・・・

 

(何日も何日も・・・・・)単調な歌い出しの繰り返し部分を原詩では                 「あなたがお出かけになってから、もう幾日幾晩過ぎたかしら」                        と書かれているように歌詞の内容を汲んで組み立てました。

「いつ 帰って来るの」

バルバラ作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

これでもう幾日 もう幾晩
あなたが行ってから 時は過たかしら
これが最後の旅にすると 出掛けるとき ささやいたわ
きっといつか春になれば 帰って来るよ 君に会いに
二人で花盛りの 庭を眺め それからパリを散歩しましょう

教えて いつ帰るの ねえ わかっているなら
きっと過ぎ去る時間も 待っていてくれないわ
もう戻らないの 無くした暮らしも

春は遠く去り 枯葉が騒ぎ
薪が燃えているわ 秋の終りの パリを見ると胸は痛み
心は身を震わせ 揺れ続ける
今の私は 面影ばかり 追っているわ 憑かれたように
私の恋は 実らないで あなたは私を 苦しめる

教えて いつ帰るの ねえ 判っているなら
きっと過ぎ去る時間も 待っていてくれないわ
もう戻らないの なくした暮らしも

まだ愛しているわ 報われなくても
あなたを愛しているわ もしも帰ることを忘れているなら
二人の恋を 思い出に 包みましょう
私の道を歩きだせば輝くわ 別の太陽で温めるの
哀しみだけじゃ 死なないわ 待つこともしない

教えて いつ帰るの ねえ わかっているなら
きっと過ぎ去る時間も 待っていてくれないわ
もう戻らないの なくした暮らしは

 

 

よくご存知のように、シャンソンではComme d’habitude’                               いつものようにという、日常の何気ない情景が描かれていて、                                       私にはさりげないこの内容はさほど抵抗はありませんが、                        ポール アンカが持ち帰って「マイウェイ」と新しい詞をつけて                            プレゼントしたと聞きました。

この原曲もしみじみと歌えると想います。

いつものように(マイ ウエイ)

はるのゆうに訳詞

肩を揺すっても 目覚めない いつもの君
そっと冷えた髪に 手を触れて毛布をかけ
寒くないかと 胸は痛む でも君は
くるりと背を向けて 潜り込む

袖を通しながら 大急ぎで部屋を出る
一人ぼっちで コーヒーを流し込んで
音も立てないよう 灰色の街に出る
コートの襟を立て 今日もまた

いつもと変わらず 流れに身を任せ
いつもと同じに ほほ笑み笑い合い
ありのまま生きて行く 人生を

やがて日も暮れて 急ぎ足で家路につく
まだ出掛けてる 君の帰り待ち続け
今日も独りぼっち 冷ややかなこの寝床の中
もぐりこみ涙かくす

帰って来る君に ほほ笑み抱き締める
いつもと変わらない 二人だけの幸せ
毎日ほほ笑みを 絶やさないで

いつもと変わらない 暮らしが幸せ
毎日ほほ笑みを 絶やさないで

Comme d’habitude’
tu te onfera rasemblant
Comme d’habitude’
on fera I’amoure
Comme d’habitude’
on fera I’amoure
Comme d’habitude’

 

エディット ピアフの歌で知られています。                                     詞の内容は3抄に分けられ、起承転結で構成されています。                        1番と3番ではどんでん返しの内容に構成され、歌う側の技量を要求してくる仕掛けがあります。

こういった手法は、ボン ボヤージュ等にも見られる手法で、起承転結をどう受け止め、解釈してそれを歌唱法に再構成するかが問われるものでしょう。ここに現実派シャンソンの醍醐味もあると言えます。

いつかの二人
クロード・ドレクリューズ/ミッセル・サンドス作詞
マルグリット・モノー作曲
はるのゆうに訳詞

カフェの奥で グラス拭く 忙しくて夢も無い
在りきたりのこの場所で あの二人を思い出す
手をとりあった 天使のように 輝く瞳で 二人は言った
二人だけの 部屋が欲しいと 夢見るように 小声で言った

黄色くなった 部屋の壁紙 うっとり見てる 二人残して
思い出すわ 瞳の中に 光満ちて いたことを
私には まぶしすぎて おかげで私は 惨めな気持ち

在り来りの毎日を 繰り返すこの場所で
寄り添って手を握り 夢を無くし眼を閉じた
明るい光が あふれる部屋の 窪んだ床(とこ)に 冷たく眠る
夜明けに浮かぶ あの日のことを 思い出すわ いつかの二人

黄色くなった 部屋の壁紙 見る度に 惨めになるわ
私には 眩しすぎて お陰で私は 惨めな気持ち

カフェの奥で グラス拭く 忙しくて夢も無い
在りきりの道具立て 表には空き部屋の
札・・・・揺れて・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

アンジェラ(天使)
アラン・バリエール作詞・作曲
はるのゆうに 訳詞

アンジェラ 小径を駆け抜けて
やっとここまで たどり着いたのに
ひっそりと静まり 死んだよう
アンジェラ あの子は 待っていたわ 貴方の帰る日を
愛していたから あの子のために 戻って来たのね

アンジェラ 何処に行ってしまったのか
答えて欲しい今すぐに どうしてなのかその訳を

アンジェラ あの子は ずっと待っていたのね
貴方が帰るその日を 離れても愛していたから

アンジェラ あの子の頬にかかる涙
それは 悪い知らせなのか 墓場に続く行列は
アンジェラ 教えて欲しい誰を埋めるのか
あの子は 眼を閉じて 何も答えてくれることはない

アンジェラ わたしにはもう判りかけた
教えてくれない訳が
あの子のいない寂しい世界 あるなんて
アンジェラ その苦しみは夢だと伝えて
冗談だよと 教えてあげて欲しい

アンジェラ アンジェラ

 

 

今回は「さらば草原よ」と訳されているラテンの曲

Jorge Negrete                                           アディオス・パンパミーア

はるのゆうに詞

アディオス・パンパミーア
別れに 胸痛む
風は 優しくそよぎ
花は咲き乱れ 鳥は楽しそうに
愛を囁いて 空高く 飛んで行く
やさしい ふるさと アディオス

どこまでも続く 碧い空の果て
清らかな 水の流れに染まって
恋も夢も捨て 私は今
輝く草原に別れを告げ
アディオス

Adios, Pampa mia
Me voy camino de la esperanza
Adios, llanuras que he galopado
Sendas, lomas y quebradas
Lugares donde he soñado
Yo he de volver a tu suelo
Cuando presienta
Que mi alma escapa
Como paloma, hasta el cielo
Adios, Pampa querida, Adios

 

 

 

吟遊詩人と呼ばれるジョルジュ ムスタキ                               このシャンソン訳詞集にも紹介済みですが、心の奥底に感じる深い揺らめく熱情を歌っているように思われて、好きなシャンソン歌手の一人です。                             HIROSHIMAなどまるで哲学のように難解な詩の内容ですが、底に流れる想いはに平和に渇望する人々に熱く伝わってきます。

このシャンソンも好きな1曲です。

10回《ある日恋の終わりが》
ジョルジュムスタキ作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

恋は いつか終る 愛し合うひと時
未練残して 何になるのか
冬空間近の 垂れ込めた雲に
恋の苦しみ 包まれて行く

恋は いつか終る 愛し合うひと時
私を思って 何になるのか
あなたに言葉を 新しい春を
やり直すため 誰かが囁く

恋は いつか終る 愛し合うひと時
悩みと涙 変わりはしない
二人が 愛した あの頃のことを
これからあなたは 忘れて生きる

恋は いつか終る 愛し合うひと時
愛は終わらない
二人の愛 とわに とわに

 

 

 

シャンソンの中でもジュリエッ・トグレコの歌で知られていますが、                   他に歌っているのをあまり見かけません。                               いかにもシャンソン風の歌詞はゲンズブールの風刺のきいた言葉が散りばめられ、             軽快なシャンソンのメロディーに哀調を帯びた歌詞は一つの物語を視せてくれます。

第9回「アコーデオン」
セルジュ・ゲンズブール作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

流しのおいらにゃ つれない人生
相棒と来たら このアコーデオン
飢えをしのぐのも 一杯やるにも
支えてくれる このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

いつでも一緒さ サツに挙げられて
ブタ箱入りさ このアコーデオン
夜が明けたなら こいつの胸一杯
膨らませよう このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

こいつのボタを 壊したときには
上着のボタンを つけてやり
オイラのズボンの ベルトが切れたら
こいつのベルトを ちょいと借り
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

いつか疲れ果て こいつもくたびれ
孤独な影が このアコーデオン
いつしかガラクタ 誰かに売られて
忘れられている このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

 

 

第8回 「Adoro」                                                 グラシェラ スサーナの歌でよく知られたメキシコの曲。                         他にクールファイブは「追憶」と言う曲名でカヴァーしている。

シャンソン歌手も好んで歌っているのでポピュラーかなと思います。                     私はラテン歌手の「あい御影」さんの熱唱で、心を打たれた一人です。

アドロ(命よりも好き)

アルマンド マンサローネ作詞作曲                                  はるのゆうに訳詞

好きよ 出会った街
二人が 知り合った夜
好きよ あなたのお話
命よりもあなたが好き

好きよ あなたの笑顔
時には からむ言葉も
好きよ 差し伸べる手も
悦び 交わすくちずけ

あなたのそばに すぐ側に
離さないでねあなたのその手を
あなたは私の すべて
日ごと夜ごとに燃え上る炎

好きよ 輝く瞳
甘い 香りの唇
好きよ こぼすため息
熱いあなたのまなざし
好きなの 命より
好きなの あなたが
Yo Te adoro vida
vida mia

 

 

第7回 Adieu(神とともに・神の御下へ)という意味合いで、フランス語では決別を意味する。          通常の別れは オ ヴォワー (再び見る・再会)という意味合いになる。                神と共にと言うことは、二度と戻らない、戻れないということですね。

元々イタリアで作られた曲をミレイユ ブロセイがフランス語の歌詞に作り直し、             イヴェット ジローが歌って紹介されたシャンソン。

この曲も起承転結が骨子に流れており、書で言うところの永字八法の歌唱力を求めるシャンソン。      喜怒哀楽をどのように自己の中に消化するかで表現は違ってくるし、伝わるものも多様に変化する。     ボン ボワイヤージュほど多様な表現はないにしても、現実派シャンソンの醍醐味を十分味わえる名曲。

アデュー
ミレイユ・ブロセイ作詞
ガルロ・インノセンツィ作曲
はるのゆうに訳詞

あなたを奪って行く あの人に
無理に笑顔 見せている私
あの人を愛しているみたいね
それで貴方が 幸せならば

アデュー みんなくれた
アデュー 愛した人
誓い合った 愛の絆も
心変わりに 切れてしまうの?

アデュー 何故別れが・・・・
アデュー 泣きたくないわ!
すてきな あのころの思い出
引き離すことは 出来ないわ
けれど二人 別れる運命
心に残された 思い出抱いて

アデュー あのまなざし
アデュー 愛しい人
思い出は今も変わらず
見えなくても 愛しているわ

間   奏

貴方をいつもそばに思う
さよなら・・・・・アデュー

 

 

 

エディット ピアフの大ヒット曲の一つ

ビデオなどでも鑑賞できるので、ご覧になられた方も多いと思います。                  アコーディオンを弾く仕草がとても印象的で、最後に腕で目を覆うシーンに胸が痛みます。         現実派シャンソンの醍醐味の一つ語りからメロディーへの転換をどう組み立てるかで表現力が変わってきます。特にラストの部分の現実と思い出の交錯する表現は、同じヒット曲の「白衣」でも発揮されており、参考になると思います。

アコーディオン弾き
ミッシェル エメール作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

街角に立つ女は 美人だった
いつもの客が ひいきにしてる
仕事がすめば 彼女の番
ささやかな夢 求めに行く
底は場末の小さなホール
ジャバのすてきなアコーディオン弾き

ジャバに耳を傾け 踊り場に目もくれないで
情を込めて 見つめているあの熱演姿を
すてきな指の動きに みじろぎも出来ずに 手も足も
身体中がしびれ 息を呑んでしまう このジャバ

街角に立つ女は 寂しかった
あのアコーディオン弾きは戦争に行った
彼が帰ってきたら お店を持とう
彼が主人の小さなお店
そして毎晩彼女のため
彼が弾くのはすてきなジャバ

ジャバに合わせ口ずさめば その姿 目に浮かぶ
すてきな指の動きに 身じろぎも出来ず 手も足も
身体中がしびれ 息を呑んでしまう このジャバ

街角に立つ女は 独りぼっち
若い女達は じろりとにらみ
男は誰も 声をかけない
焦れば焦るほど 悪くなるだけ
彼が死んだと 信じられない
それでもくたびれた足は 場末のホールへ

そこには別の男 懐かしいジャバを弾いいてる
眼を閉じて聴く・・・・・・
すてきな指の動き・・・・・・
足の爪も頭の先までもしびれてしまう
涙こらえ 忘れようと音に合わせ 踊りだす
やめて! このジャバを  やめて!

 

 

アコーデオン
セルジュ・ゲンズブール作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

流しのおいらにゃ つれない人生
相棒と来たら このアコーデオン
飢えをしのぐのも 一杯やるにも
支えてくれる このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

いつでも一緒さ サツに挙げられて
ブタ箱入りさ このアコーデオン
夜が明けたなら こいつの胸一杯
膨らませよう このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

こいつのボタを 壊したときには
上着のボタンを つけてやり
オイラのズボンの ベルトが切れたら
こいつのベルトを ちょいと借り
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

いつか疲れ果て こいつもくたびれ
孤独な影が このアコーデオン
いつしかガラクタ 誰かに売られて
忘れられている このアコーデオン
どうか皆様 お恵みを
やって下さい アコーデオン

 

 

 

 

エディット ピアフの映像では、指の動きでアコーディオンを引く様子を表現し
そこから聴衆をグイグイ歌の中へと引きずり込む。
これもまた見せるというシャンソン歌唱法「祈り・願い・叫び」の新しい歌唱法として
見逃すことの出来ないもの。
現実派シャンソンの真髄を見ることが出来る。

アコーディオン弾き
ミッシェル エメール作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

街角に立つ女は 美人だった
いつもの客が ひいきにしてる
仕事がすめば 彼女の番
ささやかな夢 求めに行く
底は場末の小さなホール
ジャヴァのすてきなアコーディオン弾き

ジャヴァに耳を傾け 踊り場に目もくれないで
情を込めて 見つめているあの熱演姿を
すてきな指の動きに みじろぎも出来ずに 手も足も
身体中がしびれ 息を呑んでしまう このジャバ

街角に立つ女は 寂しかった
あのアコーディオン弾きは戦争に行った
彼が帰ってきたら お店を持とう
彼が主人の小さなお店
そして毎晩彼女のため
彼が弾くのはすてきなジャヴァ

ジャヴァに合わせ口ずさめば その姿 目に浮かぶ
すてきな指の動きに 身じろぎも出来ず 手も足も
身体中がしびれ 息を呑んでしまう このジャヴァ

街角に立つ女は 独りぼっち
若い女達は じろりとにらみ
男は誰も 声をかけない
焦れば焦るほど 悪くなるだけ
彼が死んだと 信じられない
それでもくたびれた足は 場末のホールへ

そこには別の男 懐かしいジャバを弾いいてる
眼を閉じて聴く・・・・・・
すてきな指の動き・・・・・・
足の爪も頭の先までもしびれてしまう
涙こらえ 忘れようと音に合わせ 踊りだす
やめて! このジャヴァを  やめて!

 

 

 

第3回       ア パリ

フランシス・ルマルク自身の歌で知られています。軽快なアコーディオンが魅力的な曲ですが、歌うとなるともう大変、何しろ息継ぎがしどろもどろになってしまいそうで、イヴ・モンタンが何度謳っても同じに歌えないと言ったとか言わないとか、軽快なリズムが好みですね。

歌いやすいように区切りをつけておきました。

ア パリ
フランシス・ルマルク作詞・作曲
はるのゆうに訳詞

ア・パリ 恋が芽生え若い二人 心には
ほほ笑みあふれるパリ
春の 風に合わせ風見鳥さえ陽気におどけて
クルクル回るよ パリ
風が パリに来るときはお日様と陽気に
浮かれて騒ぐよパリ
二人 手に手を取り 恋人気分で
ブラブラ眺めて歩く パリ
いつも変わらない美しい
パリの街を確かめて

ア・パリ オマワリ尻目にひそかに
お客をねらっている 流しのタクシー
カフェでは 身振り手振りで朝から晩まで
おしゃべりしている者や
そして のべつまくなしセーヌの河を
訪れるお上りさん達
みんな 昼になると水浴びをして
河のほとりベットに仕立てる

ア・パリ 何もかも忘れるために河に
身を投げる人もいるよ ラ・セーヌ
けれどセーヌは水面を行くきれいな
船を眺めることも好きさ
パリは暗い闇のときもある
でも世界も同じことがあるはず
闇に明かりが灯りアコーデオンに
合わせ踊り回るパリ祭

どの街も人があふれて 娘らも踊り狂い
休むことも忘れて石畳の上踊る
昼も夜も  ア・パリ

 

 

第2回 現実派シャンソン                                         現実派シャンソンは、よく知られている曲で言えばエディット・ピアフの「白衣」など、この歌唱方法にぴたりと当てはまる曲ではないでしょうか?収監された女の狂気と現実の、ない混ぜになった混沌とした精神の錯乱した描写は恐ろしささえ感じさせます。                                           あまりエディット・ピアフの曲は取り上げないジャクリーヌ・ダノの同曲は見事に映像としても具現化しています。                                                                又、ジャクリーヌ・ダノの別な面での叙情的レアリスム(現実的)な曲はモーリス・ファノン作詞の「HIROSHIMA」でしょう。                                                 2回目はこの[HIROSHIMA」を取り上げました。

HIROSHIMA
モーリス・ファノン作詞
ジャン・ポール・ロゾウ作曲
はるのゆうに訳詞

すべてうばわれた ヒロシマ
瀬戸の海も 港や街も
漁師の手から 魚は消え
光る朝日も 子供達の
艶やかな髪も・・・・・
私は まだ 幼く・・・・・

すべて 奪われた ヒロシマ
椿の花と こがね色の
菊の花も そなえはしない
葦や街も 子供達も
奪い去った・・・・・
私はまだ 幼く・・・・・

すべて 奪われた ヒロシマ
絹を紡ぐ 桑の木にも
お茶の花や 長崎から
天草の海 優しい妻
うつろな瞳・・・・・
私は まだ 幼く・・・・

すべて 奪われた ヒロシマ
空が裂けて 黒い雨が
降り注いで むくろを築く
池に浮かぶ 誰もいない
ゆりかご揺れて
私は まだ 幼く・・・・・
眠っていた・・・・・

第1回                                            愛の讃歌
エディット・ピアフ作詞
マルグリット・モノー作曲
はるのゆうに訳詞

空が墜ちてさえも 大地が裂けるとも
愛してくれるなら 生きてゆけるの
愛 あふれる朝に 貴方の胸の中で
喜びに震える 私を抱き締めて

世界の果てに ついて行きます
そう 望むなら
月も宝も 盗っても来るわ
あなたのために
友達さえも捨ててもいいの
笑われたってそう望むなら 私は出来るの

別れが訪れて 二人を裂こうとも
命の限りに 愛し合えるわ
いつか神様が あなたを奪っても
青い空の果てに 二人で生きて行く

永久(とわ)に結ばれる 愛こそ総てなの
あなたと二人で 燃えて愛し合うの!

 

 

 

歌を歌えば、心も軽く・・・シャンソン歌唱法 

                   日本訳詞家協会正会員  はるのゆうに

《プロローグ》何故歌なのか?

あまり気にしないで歌っておられるようだが、歌う意味は何でしょう?

こんなことを言うと「ちょっとぉ」と言われそうですが、

この辺りが結講おろそかになったまま歌われているように想えます。

シャンソンを歌う時、何を目的に歌うのでしょうか?

好きだから!それも又結構、でもちょっと控えて「人に聴いてもらいたいから」と言うのであれば、

少し考えを拡げなければと思うのですが。

例えば表現の問題、内容をどう伝えたいか、なんて考えませんか?

「気持ちを込めて」、なんて指導を受けることがあるようですが、この(気持ち)とは何でしょうか?

これを習いたいのではないですか?

日本の文字や言葉は固有の意味と表情を持ち合わせています。

文学ならばそれを選択すればそれなりに伝えたいこともある程度表現できますね。

ばか 馬鹿 バカ 例えが悪いのですが判りやすいので・・・・

これって皆同じ感情でしょうか?

違うでしょう?だから使い分けているのだと想いませんか?

自分が歌う内容をこのように考えたことはないですか?

もう一つ例題

よくご存知の「再会」

出だしの「アラお久しぶりね!」これは一体どのくらい会っていない状況なのでしょうか?

あなたがもし、親しい友人に街角でばったり会った時どんな風に言葉をかけますか?

1周間でもお久しぶりだし、1年でも、それが3年も過ぎれば軽く「アラお久しぶり」

とは言わないと想いますが・・・・・

ここに問題が潜んでいるのです。

この時間観念を歌に投入することで、実は観客を引き付けることも出来るのです。

やり方は簡単!会場のお客様が1年ぶりなら、その気持ちのままに「アラお久しぶりね」と言えばよろしい。

でも、たいていはリズムに乗って「アラお久しぶりね」これって時間の経過が感じられませんよね。

昔・・・広島にジャクリーヌダノさんが仕事で来られて、終了後私のお店に遊びに来てくださいました。

ステージを2回終えられ、夜10時も過ぎて、くたびれているはずなのに待ち構えていたファンの方々と談笑し、

飲み歌い、とうとう午前0時を回る頃ファンの方から「ヒロシマ」のリクエストが飛び出しました。

それまでどんちゃん騒ぎで、アコーディオンのジャンピエールさんとピアニストのエルベセランさんが

二人で連弾を披露したり、ダノさんもセランさんの膝に乗っかってと、ノリノリの後でした。

彼女は驚いた風に少し戸惑いましたが「少し待って下さい、気持ちを切り替えなければ歌えないので」

と言われてじっと瞑想するような感じに30秒程集中されて

「初めて歌います」(録音以外人前ではで)と言われて歌ってくださいました。

そのあとファンのかたが「あなたはどうして涙を流すのですか?」と言う質問に、

彼女はニコニコしながら「私は登場人物になってしまうので、自然にこぼれるのよ」と答えられたのです。

演技ではなく、そこまで歌に入ってしまうということでしょうね。

その後30名ほどのお客様とにこやかに個別のショットを撮らせて下さり、最後にハグハグ

もうヘトヘトになっているのに「ファンあっての自分」ということを絶対に忘れないことなのでしょう。

それだけで皆さん大満足でお帰りになられました。

プロ意識の凄さを、まざまざと教えていただいた時間でした。

今回の記事で、皆様が何かを掴んでくだされば幸いです。

敵にも味方にもなるビブラートの話

知人のバイオリニストとの雑談の中で、 ビブラートの話が出ました。

以前そんな話を書いておりますが、参考になるのではと、再度おさらいの意味で書い てみました。

現代音楽が生まれるまでは、常に自然の音が相手でした、やがて保存するという習慣 ?

から楽譜が工夫され、様々な約束事も生まれてきました。

そこで決め事の制約上絶対音が必要になり、お陰で音符さえ読めれば誰でも

同じ曲を 演奏することが出来るようになりました。

問題は自然の音を無理やりその中に当てはめねばならなくなったということです。

何かというと自然の音は必ずしも音符に当てはまらないと言う事です。

つまり、ドとレの中間の音も存在します。

バイオリンやベースもフレットレスと言って、音の高さを限定する範囲を示す

フレッ トという仕切りがありません。

指の腹の一寸したねじり具合で音の揺れを出し、美しい響きを出します。

歌で言えばビブラートに当たります。

二胡(胡弓)も独特の侘しさは同じフレットレスから生まれます。

つまり音には響きに準ずるビブラートがあって美しいものと、

会話のようにストレー トなものが聴きやすいという二面性のあることが理解出来ます。

何を言いたいのかというと、目的によっては楽譜はとても不便であると言う事なので す。

彼女の御子息は文楽の三味線を仕事にされていますが、良く師匠から「 音が高

い」と指摘され悩むそうです。

それは彼が絶対音に置き換えて聴き取るからで す。

先程のドとレの中間音が文楽や三味線にはあるからです。

それが文楽や横笛等和楽器特有の世界でもあるのです。

歌で言えば、激しい曲や早い曲にはビブラートやエコーを使うと音終わりと、

次の音 がビブラートやエコーと重なり合って打ち消しあったり、音が濁ったりします。

音響をセッティングするとき一番苦労するのは、会場によって壁や天井からの

反射音 と、エコーの波形が干渉しあって奇麗な響きならないことです。

逆に柔らかなメロディーの美しい曲などにノンブレスやノンエコーは、とても生々し く聴こえます。

エコーは音終わりの音に響きを加える方法ですが、ドの音にエコーをかけますと、

ド の半音の上下の音が加えられます。

この高さや長さ、波長の長さ、消して行く長さと 消し方を調整して加えます。

今日のお話は難しく聞こえますが、とても大切な問題なのです。

つまり、歌によってエコーはかけたりかけなかったりするのがベストだと言う

事です。

MC(話し)の時はエコーを切り、歌に入るとエコーを入れる、こんなことも

PA( 音響)さんは常時やって下さるので、話にエコーが入ってビヨ~~~ン

という聴きづ らさを無くしているのです。

ご自分の曲がどのような物かを知って、音響さんに「お願いします!」と

言えるよう になれば、あなたも立派な歌い手さんですよ。

そのためにはモニタースピーカーから聴こえてくる自分の声を聴き取る余裕も必要に なりますね。

それによってマイクの加減も出来るのですから、ホンの少しの努力をし てみるのも

大切なことかも知れません。

シャンソンを歌って行く上で、表現上いくつかに分けて考えねばならない物に歌唱法があります。

通常の歌なら、ただ歌えばよいのですが、ことシャンソンとなるとそれだけでは

不足したものが出てきます。

そこがまたシャンソンの醍醐味でもあるのですが。

気持ちよく歌えればいい!!

それもまた歌の楽しさですが、単に歌うだけなら鼻歌でよいわけで

人前で・・・となると、ちょっと待てよ!と思いませんか?

昔、声楽家の知人が「あたしも年だから声が出なくなったので、シャンソンでも

歌おうかしら」とのたまったので、呆れましたが、確かに誰でもシャンソンは歌えます、

でもこれは曲であって、シャンソンという響きを持つ特有の歌唱法とは別物ですね。

 シャンソンを聴いて「私も歌いたい」と思った時、それは何を基準にしているのでしょうか?

大半の人が曲の美しさではないでしょうか?

歌詞がよかった!というのはごく一部で、大半がメロディーの美しさでしょう。

 音楽の3大要素は①リズム ②メロディー ③ハーモニーであることはご承知の通りです。

 ただ、シャンソンに限って言えば必ずしもそうではないこともあります。

シャンソンには古くからある歌と、エディットピアフなどの時代から新しい

表現方法の一つとして工夫された歌唱法に《レアリスムシャンソン》と言うものがあります。

その始まりはエディットピアフからとも言われ、以後のシャンソン歌手の多くが

この歌唱法を取り入れた歌を世に送り出しています。

なかでもそのレアリスムシャンソンの特徴を的確な言葉で言い表した人が

故モーリスファノンで、彼はシャンソンの3大要素は「祈り・願い・叫び」であると言いました。

現在でも、シャンソン界は大きく分けてこの二つの流れに沿った活動がなされています。

フランスでは日本で良く耳にする古来の歌唱法も聴くことはありますが、

大半が表現力の豊かな後者の方にウエートがおかれています。

後者の特徴を言えば「歌の表現方法に疑問が出た場合は、

迷う事なく言葉を選べ」と言う言葉でも理解できると想います。

音符はあくまでも補助的な要素に限りなく近いという事でしょう。

つまり、作詞・作曲であって、その逆の曲に詞をつけるものは珍しいと言えるほどです。

代表的なものに「枯葉」が挙げられます。

1945年、ローランプティ・バレエ団のステージ「Rendez-vous」の伴奏音楽の

一つとしてコズマが作曲したメロディーが原型で、このステージからモチーフを

得て翌1946年に製作されたマルセル・カルネ監督の映画「夜の門」

Les Portes de la Nuit )で挿入歌として用いられることになり、

映画の脚本にも携わったプレヴェールが新たに詞を付けました。

歌を作るという作業から考えると、その曲をどのように歌えばよいかが見えてきます。

心の中に浮かんだイメージを形に表すのに文字が用いられますが、その段階で

イメージは省略と固定化される。

解りやすく言えば、「運命」はベートーベン以外本当の表現は出来ないということ。

それ以外の人の手になると、これは解釈という形に変わる。

そこにカラヤンやメータ、小澤の「運命」というスタイルが生まれる。

だから、どこまで作者の気持ちに踏み込んだ解釈ができるか、が 歌う側の感性となるでしょう。

よく言われることですが、「シャンソンは原語でなきゃぁ」云々・・・・・・

これは正解です・・・・が、聴く側が日本人なら必ずしも正解とは言い難いですね。

フランス人ほどのフランス語の理解力があるのかどうか?

言葉の語彙がどれだけあるのか?

フランス人の知人が「日本語はとても美しく、素晴らしい、それは表現方法が3通りあり、

それを駆使して表現する国民は日本人以外にない」と言われましたが、

「ひらかなの優雅さ優しさ、カタカナの砕けた表現力に漢字の文字に内包された意味合い、

これらを複雑に取り混ぜて表現する言語は最高で、世界に類を見ない」と語ったのは納得が行きます。

今日本で歌われているシャンソンには、いくつかの問題があります。

1931年頃「パリの屋根の下」が封切られ、その後「巴里祭」が公開され、

シャンソンが広まるきっかけになりました。

本格的なシャンソンブームはリシェンヌ ボワイエの「聞かせてよ愛の言葉を」からだといわれています。

この頃の歌は美しいメロディーと、フランス語特有のリエゾンによる鼻濁音の響きがまさに夢見心地なのです。

話が飛びましたが、作詞者は言葉という障害を越えて一つのイメージを定着させ、

その言葉に気持ちを補足させるために曲をつけます、イメージの拡大です。

こうして一曲が誕生します。

次は表現方法という事になります。

詞はいうなれば香水のようなもので、メロディーは香りのようなものと考えれば解りやすいでしょうか。

 ここで初めて今回の表題が出てきます。

シャンソンの曲を歌うのとシャンソンの心を歌うのとでは、表現方法が異なるという事です。

 多くのシャンソンがそうであるように、心を伝えることを目的に作られた場合、

表現方法はレアリズムの歌唱法をとります。

 シャルル アズナブールの「のらくら者」日本題「あきれたあんた」

なぞを見るとよく判りますが、どこからメロディーでどこまで語りなのかが、あいまいな表現方法もあります。

 歌ととらえるよりも、伝えるための表現方法・歌唱方法によるものです。

 シャンソンには、クープレとルフランに分けられるものを多く見受けます。

 Aメロがクープレに当たり、前半の部分を占め、後半のサビの部分がルフランと一般的には呼ばれています。

 枯葉なぞは典型的なスタイルで構成されています。

 このように気持ちを表現する手法として工夫がなされているのも、

シャンソンの楽しみ方のひとつではないでしょうか?

 具体的な話に進みましょう。

よく比喩的に使われる曲「サン トワ マミー」ご存知 「二人の恋は終わったのね」・・・・・

 でも楽譜の譜割や実際に歌を聴いて見ると「二人の行為は~終わったのね~」と 聞こえるのです。

チャンスがあったらよく聞いてみてください、大半の歌手がそのように歌っています。

 日本人は耳から入った音を脳が漢字に置き換える作業ができますから、

このようなおかしな変換はしませんが、ひらかなでしか理解できない

異国の人たちには、「ふたりのこお~いは おわったのね~」と言う言葉に聞こえるのです。

ここに落とし穴が存在します。

これこそが、今から書き出そうとしている現実派シャンソンの歌唱法です。

 フランス語ではちゃんと音符と言葉は合っていますが、日本語に置き換える作業で変えなければなりません。

 美しい日本語は語尾を決して延ばしません。

語尾を伸ばすのは学生運動などのアジテータ「我々わぁ~~~~今の時代をぉ~~~~」まぁこんな感じですね。

 世界一美しい言葉と自負するフランス人が、メロディーの為に言葉の語尾を延ばしたりする愚を

犯すことはあり得ません、もはやそれは美しい言葉ではなくなるからです。

日本語の美しさは漢字(神字)仮名交じり文に特徴があり、それの持つリズム感が妙味と言える。

 文字には特有の内包する意味合いや表現力があり、使う人の心に添った形(形血)がある。

訳詞をする場合でも、これらのことを念頭に置いて訳されたものは、

高度な歌唱力をさらに要求してくますし、それをも汲み取れる表現者(歌手)

はさらに奥深い歌唱力を発揮できるのです。

 クラシックバレーは単なる鑑賞者にとっては、だれが踊っても同じに見える、

だが本当は、「基本形はあるが決まりではない」と言う事はあまり知られていませんね。

 つまり始点Aから終点Bに指が移動する基本的決まりはあるが、

その途中経過は演者の解釈の自由である。

その間で振り付け師は自分の表現方法を練り上げる。

私が提唱する歌唱法は、あくまでも個人がどのような解釈をしているかを

見極めながら、その方向に沿った形で進めます。

 人に自己の意思を伝達する方法として言葉が生まれ、それを残すために文字が工夫された。

 器楽の特徴に精通しているクラシックの指揮者が同じベートーベンを

指揮しても、その演奏はそれぞれの解釈で異なるだけに、その表現方法は異なってくる。

 かつて私の知っている謡(うたい)の先生は、場所の広さによって使う義歯(入れ歯)

を選んで持ち歩いていました。

聞くと「広さによって微妙に響き方が違う」と言われるのです。

 こう述べれば、私のお話ししていることがご理解いただけるのではないでしょうか?

 音響も同じことが言えます。

同じ機材であっても、壁・床・天井の広さや堅さ材質が違うとリバーヴ

(エコー)のかかり方が違ってくる。

音の波(残響音)と反射音がぶつかり合って相殺すると、エコーは濁ってザワザワし、

逆に旨く交差するときれいに響く。

 エコーは声質や音色に大きく左右される部分も含まれ、その立ち上がりの時間とかかる長さと

消える長さを調節する必要がある。

またマイクロフォンによって随分音色に違いがある。

 こちらも部屋の構造や広さで必ずしもオールマイティーな物がある訳ではなく、

 いずれも試して選択する以外方法はないのが現状です。

ノイマン(Neumann)などは、微少な音も再生するために天井などが

低いと、壁、床の反射を反映し、特定の音域で乱れるなど苦手な場合もある。

しかも音色(おんしょく)によるから厄介なものです。

 Shure Beta 58や87Aは堅牢な作りなので少々の無理は聞いてくれるし、

AKG(アーカーゲー)は女性ヴォーカルにとても相性が良いとか色々で

あるが、いずれも声質にもよる事を付け加えておきたい。

 ただ、人様の前で歌おうというのであれば、SM58(通称ゴッパ)

程度のマイクではあまり期待が持てません。

せめてベータ58Aか、少し上のクラスの87Aあたりをマイマイクとして持ち歩きたいものです。

 パーティーなどに呼ばれて歌う場合でも、会場のマイクを使うのと、

マイマイクを持参するのとではPAさん(PA:Public Address・公衆伝達=音響の業界用語)

の態度が違う場合もしばしばです。

 本当にプロの自覚があるなら、せめて数本の特性の違うマイクを持ち歩くくらいの意気込みはほしいものです。

これは歌手にとって最小限必要な手段であり武器だと思います。

 PAさんに会場での響きをチェックしてもらい、一番響きのよいマイクを選択することは、

お客様に対して最小限提供するサーヴィス義務があると想いますが?。

 声は生き物です、その日によって、場所により、時間帯や疲労度によって様々な条件で違ってきます。

その場に応じた最良のマイクを使う事は一番最初に留意する事ではないでしょうか?

 このようなことも,舞台に上がる必要のない人には無縁と想われるますが、

結構カラオケキングの方も最近は増加しており、モニタースピーカーから聞こえる自分の声を

良く認識している人とそうでない人とでは、雲泥の差が出るから、聞きかじりでも良い、

知っておくと無駄ではないと想います。

 カラオケ用のマイクは1本1000円程度ですが、

SHURE-BETA-58A(ダイナミック)は9700円程度、

さらに高額な物で、SHURE-BETA-87A・16800円、

NEUMANN-KMS105・52800円もあるが、

これら高額なマイクはコンデンサーマイクと呼ばれ、

ダイナミックマイクとは全く別物ですので、プロ以外あまり用がないとも言えましょう。

他にAKG(アーカーゲー)やSENNHEISER(ゼンハイザー)等もありますが、

一般的によくみられるマイクはシュアー、AKG、ノイマンという感じでしょうか。

PAさんが持ち歩く物は、シュアーSM58や国産のオーディオテクニカをよく見かけます。

 舞台映像を見るとき、そのあたりも注意してみるとまた違った興味も出てきます。

 シャンソン歌手がマイクにこだわるのは、微妙なニュアンスを再現してくれる機材を

求めるからであり、それを必要としない人には無用の事です。

 皆さんが歌いやすいと感じるのは、このマイクの善し悪しだということも認識されると良いと想います。

 最もPAさんの腕次第で音響は大化けしますので、機材だけが全てではなく、

音響さんがどこまで歌う側の表現力や声質などを把握してくれるか、とても大切な影の立役者です。

 マイクもまた文字と同じで特有の表現力を備えている、それを知って使い分ける事も、

また歌を伝える手段として心得ておくと、少しでも上質の音を伝えることができるのではないでしょうか。

 最後におさらいの意味を含めて、言葉や文字が伝達の手段として工夫されたのであれば、

歌もまた表現方法に工夫を巡らせて良いものであり、その形がエディットピアフから始まったことを

忘れることは出来ません。

レアリスムシャンソン歌唱法・・・

エディットピアフの晩年の作品の大半がこの歌唱法で歌われていることでも、その表現力がよく理解できます。

 かつてジャクリーヌ ダノが広島では初めての舞台を不安の中に終わらせて、

客席が明るくなった時、多くの人々が舞台にかぶりついていたのを見て、うれしそうにほほ笑んだ事を

今も忘れることは出来ません。

 大半の、というよりもその殆んどの聴衆がフランス語は判らない、その中で全く知らない曲目、

極めつけはすべてがフランス語で歌われる、そのような悪条件化で起きた聴衆の行動は、

まさに現代フランスを代表するシャンソンレアリスト(現実派シャンソン歌手)の一人である彼女の

面目躍如の出来事でした。

 気まぐれに皆様に配布させて戴きます事をお断りして、私なりに感じるシャンソン考を徒然に

述べて見たいと思います。

堅苦しいことは抜きにして、読んでいるうちに、何となく自分も出来るような、

あるいは理解出来たような気がすれば良いじゃないかと、軽い気持ちで読んでいただければ幸いです。

 歌の心は・・・・心 私が基本的に感じる歌心は「心は伝わるもの、声は伝えるもの」と言うことです。

 心はどこにあるかなんて話ではなく、「あの人の歌にはハートがある」とよく聞きますね、これって何でしょうか?

 技術や技法でもなく、当然恰合でもありません。

最近は恰好が多すぎると思います、それはメディアが発達したからでしょうが私が言いたい方は恰合で、

あたかもあうと書きます、つまりそれ以上もそれ以下も無い事で、別の言葉で言えば適当です。

 こちらも、今はいい加減なことという風に置き換えられていますが、本来はこれ以上も以下でも無い事ですね。

思いを伝えようとすると、欲や見栄や押し付けが前に出てしまい、思いとは裏腹な部分が伝わってしまいます。

 きれいな声があればそれなりに武器にはなりますが、これも両刃の剣で、逆に表現力としては出せない事もあります。

 例えば、「若草のころ」が似合う人が「白衣や暗い日曜日」は様にならないように。

これは声質によるものです。

 そんなわけで、好きな歌と歌える歌は別であることをまず認識しておけば、惑わずにすみます。

最も楽しむのとは別です、あくまでも人前で歌うことを前提にしてのお話です。

では実際にどうすれば良いのか?

これからが大切な内容でありプロと言えども中々到達出来ない世界です。

そう言ってしまえば、ハイおしまいなので、シャンソンレアリストであるジャクリーヌ・ダノの言葉を

ご紹介致しましょう。

 ある時ファンの方が「あなたはヒロシマを歌われるときに、必ず泣かれますが何故ですか」と尋ねられました。

すると彼女は「私はその人物になってしまうので、自然に涙が出るのです」と答えられました。

 普通は、登場人物になりきる、あるいはなるように演技するものです、いずれも我見が入ってしまいます。

 彼女はその人物にまで昇華してしまい、自分の言葉自分の体験として、言葉と音を添えて外部に向かって語り、

吐き出すのです。

 もう一人マヘリヤ・ジャクソンというゴスペルの女王がいました(故人)

彼女は確かに美しい声を持っていましたが、それだけでは人の心を揺り動かすほどの感動は与えれないものです。

「私の体を通して神が歌われるのです」これが彼女の返事でした。

 歌を自分の物にするとはこういった境地を言うのですが、素人に望むことは酷と言われそうですね。

そこでもう一つ、私の体験談で今回は締めくくります。

 友人の親父さんが指し物大工をしていましたが、非常に正確な仕事をします。

私もそんな事が好きなので、道具を買おうと思い相談しましたら、「最高の物を買いなさい」と一言!

スーパーなら1000円程度であるものが5万も6万するのです。

「アマチュアだから・・・・」と言うと、「プロが最高の物を使って出来る仕事をアマチュアが安物で

出来る訳がないだろう!」と一喝されました。

自分の声質にあったマイクを持ち、会場によって自分の声質が一番効果の出る物を選び、

あるいはチューニング(音響さんの仕事です)することをご理解いただければ幸いです。

 プロ歌手と名乗る以上、この程度は自分の出てくる音に神経をとがらせ、再生される音をチェックし、

その場でのベストコンディションで望むのが本当のプロ歌手だとおもいます。

最高の舞台を創る上においての心がまえは、プロもアマも無いと思います。

 それとも今風に適当な歌や舞台で満足出来ますか?

 モニターから聴こえる自分の声に、もう少しだけ神経を使えば、きっと心に伝わる歌が歌える日も近いと思います。

一生懸命泣き、一生懸命笑う、何事も一生懸命・・・・

 舞台の上で、出張りがある(実物よりも大きく見える)人に共通した物があります、

それは、必要な動き 以外は目玉一つ動かさないというくらいの極度に動きを押さえた効果が見せる、

計算上の大きさ。 もう一つは、背筋が軽く上方に伸びてアゴが適度に引けている人。 小さく見える、あるいは自信の無い人に共通していることは、前かがみの姿勢であること、

不必要な動作 や全体的にチョロチョロと動きが伴う人、(ハンドマイクはこの傾向が多くみられる) 心ここにあらずという感じの歌になってしまうのは、アマチュアではやむを得ないと云うのは容易なのだ が、

それでは進歩が無い、少なくとも自分が舞台に立っている間は、観客は否応無く舞台を見さされてい るわけで、

したがって自分はディーバ(女王)である!と思い込んで「苦しゅう無い!近こう寄れ」位に 振る舞ってほしい、

歌終わりでもアプローズ(喝采)は自分だけに与えられた物ですから、舞台の上で、 余韻を楽しんで頭をあげる位にすると、いくら歌がお歌(お上品)でも、大物に見えます。

それこそが出張りのある舞台になる秘訣でもあります。

歩く時はすり足(能役者が歩くような、あるいはお茶の所作の歩き方)で背筋も延ばし、顎を引きゆっく りと・・・・

いかがですイメージしただけでも大女優になった気分がしませんか? アマチュアだからと逃げを打たないで、一つ舞台は独壇場だからくらいに思って演技して見てください。 日ごろの自分とは違った人物になれますよ!。

目線のキョロキョロは非常に損をします、目のやり所に困るのは、とても慣れない事だけに同感ですが PA(音響)の赤いランプとか、自分なりの目印を決めて置いて、常にそこに戻る様に意識するだけで、

随分落ち着いて見えます。

パリで見た舞台人で、感動を与えてくれたエリック・ラレーンは小屋でしたが,最後はお辞儀なしで、 アンコールの最後に深々とお辞儀をして、小屋の隅から隅までなめる様にゆっくりと観客を確かめながら

見終えてにっこりと笑顔を見せてくれました。歌は大半がロックシャンソンで判りませんでしたが、

大器 だと友人の音楽ジャーナリストが云ってました。

もう一人は「ピガールの娘たち」のセルジュ・ラマ、こちらはアンコールに「灰色の道」をアカペラで 歌い、喝采の間中腰を90度に折り曲げたままじっと鳴り止むのを待っていました。 それに感動してまた、全員が舞台を足で踏み鳴らし惜しみない敬意を贈っていました。

歌うことは一番大切ですが、それに加えて何が人々を感動に導くかが、少しでもご理解戴ければこの項 がお役に立てたと思います。

歌うことが好きであれば、歌うことを楽しむことも同時に覚えましょう。 自分が酔うのではなく、観客が酔い、その反応に初めて自分が酔うのがもっとも大きな喜びではないで しょうか。

長々とお読みいただき感謝いたします。 下記は技法や歌唱法などを公開しております。 シャンソン歌唱法 12%

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